くろかわ/ほりかわ

黒川/堀川(ページ作成中)

堀川の流路図
堀川の流路図

<基本データ>

名称  堀川(朝日橋より上流の俗称=黒川)

種別  人工河川

形態  現存

延長  

流域  名古屋市守山区・北区・西区・中村区および中川区と中区の境・熱田区・港区

市中心部を流れる川として名高い堀川。守山区瀬古にて庄内川より取水し、おおよそ熱田台地の西縁に沿うように北から南へ流れ名古屋港へと至る延長16.2km、流域面積50.3平方kmの一級河川である。

 

堀川という名前からも分かるように、元は人工的に掘られた川である。開削は慶長15(1610)年、名古屋城築城に際して福島正則により行われた。当初は名古屋城西の幅下を始点として広井・日置・古渡を経て熱田の海へ注ぐ長さ約6km、幅約22m~87mの川であった。 台地上からは複数の小川が流れ込んでいたものの、水源と呼べるものはもたず、当時はあくまで潮の干満を利用して舟の運航をはかる運河だった。

 

堀川開削半世紀後の寛文3(1663)年に御用水が開削された。御用水は城のお堀に水を引くためのもので、川村(現・守山区)にて庄内川より取水し、矢田川を伏越して名古屋城に至るまでの

取水した庄内川の水が矢田川の下をくぐり、名古屋城のお堀までひかれたことで、お堀の余水吐である「龍之口」から清水が堀川の上流端に流れ込むようになった。水源のなかった堀川に清水が流入することになったのである。

 

 

堀川に架かる橋のうち、市民にいちばんなじみの深い橋は、なんといっても広小路通に架かる納屋橋であろう。慶長15年頃の開削とともに架かった古くからの橋の1つであり、明治44(1911)年~大正2(1913)年に当時としては最もモダンな鋼製アーチ橋に架け替えられた。この時、高欄に堀川開削の功労者・福島正則の家紋「中貫十文字」がはめられ、先人の偉業をたたえた。昭和56年にも架け替えられたが、この高欄は補修して再利用されている。

江戸時代から大正のころまでは堀川も清流であった。朝日橋までさしてくる潮とともに鰹や鰯がのぼって来たといわれ、「月見舟 漕わかれくる 鰯かな」(永舟)の句も残されている。清流を誇った堀川もだんだん水質が悪化し、昭和10年ころには、BOD(生物化学的酸素要求量)が35mg/l程度になってきた。このため木曽川の水を木津用水を経由し、堀川に導水して浄化する実験が行われ成果をあげた。 その後、人口や産業活動が衰退した戦中・戦後の一時期は再び水質が浄化したものの、戦後の産業の急速な発展による工場排水、人口増加による生活汚水の流入により、だんだん清流を失っていった。

堀川から発生する硫化水素などの悪臭公害は目にあまるものとなり、「死せる川」とまでいわれるようになった。BODは昭和25年頃20mg/l、35年には39mg/l、そして41年には54.8mg/lと汚濁のピークを迎えた。 この浄化対策としては、第1に河川浄化事業としてのヘドロ浚渫があげられる。第2は下水道整備、第3は水面の清掃である。このような浄化対策が進められた結果、最近はBODが5mg/l程度まで下り、相当きれいになった。

昔、名古屋の発展に一役かった堀川、市民の心のふるさととしての堀川、子供の格好の水遊び場となっていた堀川、今いちど昔の潤いのある川としてよみがえって欲しいものである。

 

庄内川の水を名古屋城の内堀に引き入れるため、江戸時代に開削された用水路が御用水である。

最初は、守山区龍泉寺西白沢川の合流点から庄内川の水を取り、三階橋に流れ、そこから下流へと流れていた。明治9(1876)年、この御用水に並行して黒川が開削され、灌漑と水運に使用された。黒川は、庄内川に架かる水分橋の付近から取水し、三階橋付近で伏越樋によって矢田川の下をくぐり、辻町に出て南西に流れている。黒川は、愛知県土木課の黒川治愿技師の設計によるもので、その功労者の姓をそのままに「黒川」と命名されたといわれている。黒川と御用水の流域の城北、城東の地域は、一般に土地が低く、豪雨の時には水がたまって被害が多かった。こうした水の被害を無くするための排水路を兼ね、また、舟が通りやすくするために、黒川下流の朝日橋から上流の大幸川と合流する間(2,874m)の川底を低くする工事が、昭和6(1931)年から8年にかけて行われた。