カテゴリ:守山区



□ヶ村=「六ヶ村」でした!!
2022/02/25
かつての庄内用水上流部 □ヶ村用水、郷合川 について 守山区ちょっと歴史散歩「守山区を巡る河川」の川村絵図の説明に 「八ヶ村用水取入口(時代により六ヶ村用水とも呼ばれた)、左に御用水取入口と二つの樋門が描かれている。」と書かれている。六ヶ村用水! この絵図の文字を読み取ったのか、文献で出典があるのかは分からない。...

川村取水の不可解[庄内用水疑問抄]
2022/02/22
(追記・重要) 本稿は執筆時点での筆者の仮説を示したものだったが、後日『尾張徇行記』の記述を見つけ、誤りであることが分かった。そのため、文中の当該部分および文末にて、『尾張徇行記』の記述を踏まえた追記・訂正を行った。

『守山市史』の誤り
2022/02/21
1963年発行の『守山市史』を読み返していたら次のような記述を見つけた。 「元文3(1737)年の御用水地図には、五ヶ村(川村・大永寺・金屋坊・幸心・瀬古)悪水とあり、「此の江先福徳三郷悪水と落合・庄内川を伏越六反川となる、」とある。」...

成願寺杁について
2022/02/20
成願寺杁 『名古屋市 庄内用水路』にある説明 「本樋菅は、矢田川を伏越して横断し、用水、悪水併用樋管にして、用水路は庄内川より取水、悪水は守山町県道犬山線より西約三〇町歩の悪水を泥下させるため調整す」...

航空写真で□ヶ村用水(=郷合川)を追う
2021/12/05
守山区の用水路について。 現在は川村で取水する八ヶ村用水が灌漑の全てを担っている。この八ヶ村用水の水路は区画整理に合わせて整備が進み、現在の姿になった。 ではかつてはどういう姿だったか。 明治10年に黒川が完成するまで、御用水および庄内用水は川村で取水していた。今よりもかなり上流に長かったということだ。...

2021/02/21
17日のブログ(八ヶ村用水について(導入篇)で「一部期間だけ使用された庄内用水の流路が後に八ヶ村用水になったかもしれないということだ。双方が特に上流部においては同一のものである可能性があるのだ。」と書いたが、それについてひとつ気付いたから書いておく。...
考えを改めました
2021/02/20
以下の文章にもあるように、庄内用水について、川村から独自の伏越で矢田川を越えて山田村へ至り、大幸川へと流入していた流路は、実は存在していなかったのではないか、という考えを持っていた。しかしながら、Ⅰ氏に教えを乞うたところ、「大幸川経由で庄内用水が送られたときは、御用水とは別の水路だったと考えている」とのことで、僕自身もよく検討した結果、具体的な経路については依然不明であるものの、存在自体を否定するべきでないとの結論に至った。 よって、庄内用水の項の追記(2021/01/23付)と大幸川の項の該当する箇所の内容を書き換えるとともに、ここにその記録として、今日までの間記載していた文章と図を転載しておくこととする。

八ヶ村用水について(導入篇)
2021/02/17
八ヶ村用水というのは、いつからある用水なんだろうか。 明治10年に瀬古で取水する黒川が開削されて、庄内用水及び御用水の水源が変わった。それまで取水していた川村から瀬古村に至る上流部の水路は不要となったわけだ。この不要となったその水路を守山区内のみでの農業用水路として再利用したものが八ヶ村用水だ、とこれまで思っていた。...