成願寺杁について先日ブログで書いた。その記事の中で成願寺杁の成立以降の歴史をA・B・Cの3期に分けて変遷の明瞭化を図ったが、今回、最終段階にあたるC期の成願寺杁について書かれた資料を新たに見つけた。
建設省中部地方建設局庄内川工事事務所が出した『20周年記念 庄内川』という本である。本文では全く触れられていないものの、「かんがい用水一覧表」の中に「成願寺用水」という用水を見つけた。以下の表がそれだ。
一瞥したところ、この表の用水は庄内川の下流側から順に並べられており、「成願寺用水」は山西用水と庄内用水の間にあることから、成願寺杁から取水される用水の名称とみて間違いないだろう。取水口(つまり成願寺杁そのもの)の所在地は「北区成願寺町米ヶ瀬地内」となっている。許可年月日は昭和45(1970)年8月となっており、当然成願寺杁自体はもっと前から存在していたものの、少なくとも昭和45(1970)年までは取水が継続されていたことが分かる。この『20周年記念 庄内川』の発行は平成元(1989)年11月なので、実態としてどうであったかは分からないが、平成以降も存在していたのかもしれない。取水口の写真など特に掲載されておらず、残念だ。
ところで、旧版地図や航空写真からも明らかであるように、成願寺杁から続く水路は、すわなち川中三郷を流れる「三郷悪水」そのものである。三郷悪水について概略を述べておくと、開削されたのは寛政4(1792)年で、この年、庄内用水の上流部が御用水と一体化され、庄内用水に新たな水路・伏越が設けられた。新たな庄内用水の流路は、排水不良に悩んでいた川中三郷を抜けることから、この水路及び伏越が排水路の役割を併せ持つことになり、川中三郷で流れ込んだ悪水を庄内用水から大幸川(現在の黒川)に落とすための排水路が同時に開削された。その排水路が三郷悪水である。つまり、当初の三郷悪水は矢田川の南で庄内用水と分かれ、南流して大幸川に注ぐもので、成願寺杁とは直接の関係はない。
明治10(1877)年になると、黒川が開削され、庄内用水も流路を変えた。これまで矢田川の北に沿って川中三郷を流れていたのが、矢田川の南側に付け替えられた。川中三郷にあるかつての庄内用水本流は取り残された形となり、その水路には成願寺杁で取水した水が流れるのみとなった。
先日のブログで書いたと思うが、成願寺杁の存在については、庄内用水や三郷悪水の歴史を語る上であまり注目されて来なかった。従来の説明は、例えば名古屋歴史ワンダーランドでは「従来の庄内用水幹線であった川中三郷を流れる水路はもっぱら三郷の排水路として使われ、名称も「庄内用水」から下流のパイパスについていた「三郷悪水」の呼び名が上流部でも使われるようになった」と説明されている。しかし実際には、成願寺杁を通じて庄内川から農業用水の取水があったので、排水”のみ”を担っていたわけではない。その上で、名称については名古屋歴史ワンダーランドの記述の通り「三郷悪水」と呼ばれるようになったのか、あるいはこの説明は成願寺杁の存在を見落したものであるので、別の名称であった可能性もある。
そういうこれまでの三郷悪水についての認識の上で、今回出てきたのが「成願寺用水」という言葉である。成願寺杁で取水された水は「三郷悪水」と呼ばれるようになった水路に流入した。成願寺用水は成願寺杁から取水される用水の名称であろうから、つまり三郷悪水=成願寺用水ということになる。
ではそもそもいわゆる三郷悪水の上流部を「三郷悪水」と呼んでいることが正しいのかどうか。これは何とも言えないが、その呼び名が定着していることは確かだし、灌漑と同時に排水の役割も担っていたことも確か。都市化が進んで以降の晩年はほとんどただの排水路だっただろうから、別に間違っているわけでもない。三郷悪水は成立の経緯から庄内用水以北の区間と以南の区間に大きく二分されるが、この内北側の区間については、「三郷悪水」と「成願寺用水」ふたつの名称を併記するのがいいかもしれない。
成願寺杁→三郷悪水
成願寺杁→成願寺用水
三郷悪水=成願寺用水
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中学学区内に成願寺 (火曜日, 16 4月 2024 10:26)
昭和50年代、子供たちの間では成願寺川と惣兵衛川と呼ばれていました。
江向3丁目58番地 (月曜日, 28 10月 2024 22:50)
子供の頃西区江向町に住んでました。
稲生にある、そうべい川のトンネルを「3本穴」と呼んでました。
3本はトンネルと通り抜けると上流の藻をとる機械のところに出ますが
下流から見て一番左のトンネルには、途中に横に抜ける一回り小さい穴(トンネル)があります。
ここを見て三郷悪水の穴なのかなと思います。