名古屋市中川区にある「女子地名」について考察してみたい。
五女子、二女子、四女子など漢数字の後ろに「女子」が付いた地名が隣り合って存在している。なんとも不思議な名前だ。五女子と書いて「ごにょうし」とか「ごにょし」とか読む。かつては一女子から七女子まであったと言う。その「女子地名」について、詳しく調べる前の時点での考えを記しておく。
これらの「女子地名」は新しく開墾した新田に付けられたものだったのではないかと思う。海を干拓して出来た土地に、機械的に一から七までの番号を振ったのだ。
例えば、江戸時代に干拓された熱田新田は、東から西に一番・二番・三番・・・三十三番となっている。名港線の六番町駅などがそれだ。同じく江戸時代の熱田前新田には、東之割・中之割・西之割・南之割があって、それぞれにイロハニホヘト・・・が振られている。中之割のイ・ロ・ハに当たるのが、今の港区いろは町である。
江戸時代当初の海岸線は今の国道一号線に重なる。しかし弥生時代まで遡ると、中村区全域が海の底。栄生の辺りが海岸線だった。庄内川が運ぶ土砂がどんどん堆積し、そこを人間が開拓し、時を経るごとに陸地は南へ南へと拡大していった。岩塚の七所社に古墳がある。中村・中川両区に跨る八田は、"墾(は)る"が由来。新しく開墾した田、という意味で、春田も同じ由来とされる。大治もそうかなと思ったが瑞祥地名らしい。名東区の高針・大針、天白区の平針、小牧市の小針など、どれも"墾る"からきている。そもそもここは尾張国・・・おっと話が逸れ出した。荒子観音はもとは高畑に建立され、その創建は729年と伝わる。荒子も由来は諸説あるが、新田を意味することは間違いない。高畑や荒子の東に位置するのが「女子地名」である。つまりここで言いたいのは、「女子地名」の辺りは古い開拓地だということ。開拓地であれば、一挙に広い範囲を拓けば、そこに機械的に一から七までの番号を振ったという可能性が十分に有り得るということだ。「女子」の部分がなにを意味するのか、あるいは元々なにであったのかは分からない。
海からの距離から推測して、高畑とだいたい同じ時期に開墾されたものだとすると、729年よりは前。・・・あ、待って。この729年ってのは伝説で、あんまり信憑性は高くないみたいだ。でも、古い地名であることには間違いないと思う。
領主が7人の娘をそれぞれの村に嫁がせたという話がある。これは字面に想を得た後世の作り話ではないかと思うが、どうか。そもそも娘が嫁いだくらいのことで村の名前が変わるか??いや、開拓当初であれば有り得なくはないか。「作り話っぽい」というだけの理由で他に根拠を求めるでもなく一笑に付してしまうのはやめておきたい。
ちなみに「女子地名」の中で、現存するのは二女子、四女子、五女子のみ。その他の「女子地名」が具体的にはどこにあったのか、そしてそれらがどういう位置関係で並んでいるのか。それがいちばん気になる。そして、新田に振られた番号であれば、ふつうは順番に並んでいるはずなのだが、四女子と五女子の間に二女子がある。なぜだー!
コメントをお書きください
匿名 (金曜日, 26 1月 2024 15:50)
荒子後に生まれ育ち、祖先は江戸時代から荒子の地主階級です。
私の祖父が持っていた土地に七女子という地名が付いていました。あたりはすべて水田か畑でした。臨港線が通っている地域でした。