尾頭(おとう)橋。堀川に架かる橋で、佐屋街道が通っている。佐屋街道は、東海道の海上区間である七里の渡を北に迂回するための道だった。江戸時代のいわゆる「堀川七橋」の一つで、その中でいちばん下流に位置する。平成7(1995)年には東海道線に尾頭橋駅が新設された。
佐屋街道は、寛永3(1626)年と寛永11(1634)年の三代将軍徳川家光の上洛を契機として、尾張藩初代の徳川義直が開いた道といわれている。
その尾頭橋について、大正4-5年の『名古屋市史 地理編』にこう記述されている。
「尾頭橋は一に新橋とも云ふ。古渡橋の南、新尾頭町と愛知郡八幡村大字西古渡字中島との間、堀川に架せる。縣道津島街道(古の佐屋街道)の往還橋なり。長17件4尺2寸、幅3間(愛知郡市には長16間m幅3間2尺とあり)。寛文5年、これを北方に移し、佐屋の街道を改む。安政3年改築す。樋口好古の説(徇行記)に拠れば、古へ佐屋街道は二女子村の方より、今の龜屋河戸(がうと)にかかり、熱田本街道へ出でたりと。明治の改築年月未詳。」
尾頭橋を新橋と呼ぶことがある、という話はどこかで聞いたことがあった。しかしその経緯まではよく知らなかった。「寛文5年、これを北方に移し、佐屋の街道を改む」とあり、かつて今より南側にあった尾頭橋が、寛文5(1665)年に移設されていたことが分かる。それで新橋と云ったのだ。『堀川 歴史と文化の探索』によると、付替えが行われたのは寛文7(1667)年だとする説もあるという。旧道は、「二女子村の方より、今の龜屋河戸(がうと)にかかり、熱田本街道」に至るルートだった。
付替えはどういう経緯で行われたものだったか。寛文5(1665)年・寛文7(1667)年というと、寛永3(1626)年や寛永11(1634)年の家光上洛に際して整備が進められてから、さほど時を経ておらず、佐屋街道の歴史の中では初期の方だと言える。詳しくは分からないが、寛文6(1666)年に幕府の道中奉行が管理する官道に指定されたそうだから、何か関係あるかもしれない。
『堀川沿革誌』は移設の理由について「当時、海は熱田神宮の門前あたりにあり、嵐の時、海から押し寄せる波や、堀川に貯木されている筏などの流木で、尾頭橋の橋げたが破壊されることが多かった」ためであると説明している。(また関連して、同書では「新橋」の由来について「たびたび新しく架けかえられる橋ということで、「新橋」とも呼ばれ」たと、異なる説を紹介している。)
『名古屋市史 地理編』で引用されている樋口好古『尾張徇行記』にはどう書かれているか。まず古渡村の項から引用する。
「塩尻ニ寛文五年乙巳尾頭橋ヲ北ノ方ヘ移シ佐屋ノ駅路ヲ改メ玉ヘリ」
「尾頭橋即佐屋街道ノ往還橋ナリ町ノ名ヲ取テ如此唱ヘリ一ニ新橋トモ按スルニ古時佐屋街道ハ二女子村ノ方ヨリ今ノ亀屋河渡へカヽリ熱田本街道ヘ出ルト也サレハ於今旧ノ街道ノ跡田間ニ遺レリ然ルニ今ノ尾頭町街道ニ改リシ時新タニ此橋ヲ築キシ故ニ新橋ト呼ヒ来レルカ不審シ新川新屋敷新町ノ類箇々ニ呼来る」
「古渡集ニ橋アト尾頭町ニアリ中古ハシアリシカ佐ヤ海道替リテ今新ハシヘ引侍ル」
「町ノ名ヲ取テ如此唱ヘリ」とあるから、もともと尾頭という町があって、それが橋の名前に採られたということのようだ。「亀屋河渡」について調べてみると、現在の瓶屋橋の位置に当たることが分かった。「熱田本街道」は名古屋城下と熱田を結ぶ本町通で、現在は伏見通になっている。
かつて佐屋街道が通った「亀屋河渡」については、橋が架かっていたのではなく、船による渡しがあったという説もある。『堀川の研究』には、「昔、「亀屋河渡」に渡しがあった。今の「瓶屋橋」の位置に当たる。西岸に古くからの商家の「亀屋」があったから、渡しの名になったらしい。ここには、古い時代の佐屋街道が通り、堀川の開さく後は、「渡し」があった」とある。
しかし私は、当初は「亀屋河渡」に尾頭橋という名前の橋が架かっていたのではないかと考える。先述したように、尾頭という名前はそもそも地名から出たもの。尾頭町があるのは現在の瓶屋橋の南東側一帯、つまり「亀屋河渡」の近くである。現在の尾頭橋とは、当然かなり距離がある。それなのに現在の尾頭橋がそう命名されたということは、かつての名前を受け継いだと考えるのが自然ではないだろうか。寛文5(1665)年(あるいは寛文7(1667)年)に初めて尾頭橋が架けられたと仮定した場合、”かつて渡しがあった所の地名(渡しの名前ではない)”を取って名付けたということになるが、それはちょっと回りくどいんじゃないかい、と思う。
『金鱗九十九之塵 巻第六拾七』(名古屋叢書第8巻)には以下のようにある。
「往古此橋はこれより南尾頭にあり。寛文五年今の所に移し、佐屋海道をあらためしと也。且尾頭より引たる故に、尾頭橋と唱ふ。又此地に引て新たにせし故に新橋と称す。」
では、寛文5(1665)年以前の佐屋街道の道筋はどこを通っていたか。「旧ノ街道ノ跡田間ニ遺レリ」とある、その街道の跡を探ってみたい。
『尾張徇行記』古渡村の項には、「二女子村ノ方ヨリ今ノ亀屋河渡へカヽリ」とある。二女子(ににょし)村は現在の中川区二女子町に当り、後の佐屋街道の少し南に位置している。旧道はこの辺りから南に逸れていたのだろうか。
しかしさらに『尾張徇行記』を読み進めると、四女子(しにょし)村の項にこうあった。
「此村落ハ旧佐屋海道通リニ農屋建ナラヘリ、サレハ村径モ東西ヘ直ク通リテ巾モ広シ、此古道ハ烏森村東ノ方ニテ今ノ海道ヘツツケリ」
四女子村は二女子村の西側に、笈瀬川(現在の中川運河)を隔てて存立していた。この集落もやはり後の佐屋街道の少し南に位置している。しかし『尾張徇行記』ではその集落について「旧佐屋海道通リニ農屋建ナラヘリ」としており、元々は街道沿いの立地だったことが分かる。さらに旧道は西に延び、新道との分岐点は「烏森村東ノ方」にあった。
これらの記述を基に、明治31年発行の旧版地図を使って、その経路を比定してみる。まず『尾張徇行記』に「東西ヘ直ク通リテ巾モ広シ」とある四女子村の道であるが、これは明らかにそれだろうと思われる道があった。赤で囲ったのがそれだ。
(四女子村は明治11(1878)年に篠原村・長良村・小本村と合併し、松葉村になっている。)
旧道はそのまま東へ延びて二女子村を抜けたのだろうが、そういう道は描かれておらず、この地図からはよく分からない。続いて、かつて尾頭橋が架かっていた「亀屋河渡」側から辿ってみると、本町通から堀川の方へ分岐する道が確認でき、その南側には建物が並んでいる。堀川の対岸からは、破線で描かれた道が八幡村野立と書かれた集落の北まで続いている。これが「旧ノ街道ノ跡田間ニ遺レリ」とされた旧佐屋街道の跡だろう。
(二女子村は、明治11(1878)年に五女子村と合併し八熊村になった。地図中、野立と書かれた集落が二つあるが、北がかつての牛立村、南が中野村で、この二ヶ村が明治11(1878)年に合併して野立村に。さらに明治22(1889)年に八熊村・野立村・中野外新田が合併し八幡村になっている。複雑な合併経緯のためか、本図の表記には若干の混乱が見て取れる。)
牛立村から二女子村を経て四女子村に至るまでのルートは明確ではないが、五女子村(地図中、八熊と書かれている集落)の南西から二女子村の南にかけての弧を描いた道がどうも怪しい。この辺りは早い時期に区画整理されていて、航空写真で確認することも出来ないから、一先ずこの破線に比定しておこう。
続いて、『尾張徇行記』に「此古道ハ烏森村東ノ方ニテ今ノ海道ヘツツケリ」とある、四女子村以西の名残を探してみる。四女子村の集落を貫く道は、そのまま少し西まで延びているが、北に折れてしまう。しかしその西にある水田の北縁のラインが、道の延長線上に位置していると見え、さらにその延長線上、庄内用水中井筋を越えた地点から破線の道が再び現れて烏森村の集落へ続いている。
その道はまさに「烏森村東ノ方」で佐屋街道へ合流しようとしており、『尾張徇行記』の記述とも相容れる。さらに新道と旧道の分岐点が想定される位置は、北から柳街道が合流する地点と重なっており、付替えの起点になったことも納得がいく。であるからして、これが旧佐屋街道の道筋と見て間違いないだろう。
(烏森村は明治22(1889)年に八田村・万町村・高須賀村と合併し、柳森村になっている。)
烏森の分岐点から庄内用水中井筋までの区間を、昭和22(1947)年に撮影された航空写真で確認してみる。当時まだ区画整理は実施されておらず、旧版地図の道がそのまま残っていた。そしてその道をよく見ると、道の北側や南側に沿って、細長い短冊状の地割が続いているのが認められる。思うに、かつてはこの部分までが佐屋街道の道幅だったのではないか。往来が減り、広い幅を維持する必要がなくなったため、一部を耕作地に転用したのではないかと推測される。
以上が『尾張徇行記』で「古時佐屋街道ハ二女子村ノ方ヨリ今ノ亀屋河渡へカヽリ熱田本街道ヘ出ルト也サレハ於今旧ノ街道ノ跡田間ニ遺レリ」と説明された、旧佐屋街道の道筋の全貌だ。
次に、これらの旧佐屋街道の痕跡である道々が、現在どうなっているのかという点を書いておきたい。今昔マップで旧版地図と現代の地理院地図を重ねてみると、次に挙げる区間でそのままの道筋が確認できた。
①本町通から牛立村集落の北まで
②四女子村の集落内
③庄内用水中井筋から関西線まで
④烏森村集落の東側の一部
①は同区間が愛知郡によって「八幡郡道」に指定されたことが、残存の要因だろう。『愛知郡誌』には、八幡郡道は熱田尾頭町を起点とし、終点・八幡村に至る延長852.5間の街道だと書かれている。メートル法に換算すると1.55kmで、「本町通から牛立村集落の北まで」の長さと同じだ。郡道になった際に若干カーブが解消されているようにも見えるが、おおむね旧佐屋街道の跡だと言って問題ないだろう。
②は集落内の道であったことが、残存の要因だろう。区画整理の際は集落の部分も対象になるが、家が建っているので、やはり従前の街路構造にある影響を受けざるを得ない。四女子村の場合は、旧佐屋街道に当たる東西道がはじめから広かったので、わざわざそれを「整理」する必要がなかったと言える。
③は区画整理前の段階で国鉄烏森寮などが道沿いに建っていたこと、また関西線と西臨港線(現在のあおなみ線)が分岐するデルタ地帯であることから、その後の区画整理に際してもこの道を変える必要もなく、そのまま残ったということだろう。
④も区画整理前の段階で、烏森村の集落が拡大する形で両側が宅地になっており、区画整理で道幅が広げられたと思われるものの、そのまま残っている。ちなみに、烏森村の集落内はほとんど区画整理の影響を受けておらず、細い径がたくさん残っている。
最後に、旧佐屋街道に当たる道の現在の様子を写真に収めてきた。なにせ寛文5(1665)年(あるいは寛文7(1667)年)に廃止されてから357年(あるいは355年)の長き星霜を経ているから、「あ~街道っぽいな~」とはならなかったが、「あ~ここを佐屋街道が通っていたんだな~」とはなった。道に歴史あり、である。
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田島 邦宏 (金曜日, 04 11月 2022 22:03)
記事を読みました 四女子町(しにょうしと呼びます)に64年間住んでいます
自分の住んでいる所が1665年以前よりあり佐屋街道があったと知ってビックリ驚いています
ここらの人は現在の6差路を挟んで四女子西、四女子東と呼んでいます 私は四女子西に住んでいますが旧マップの黒く現している家は現在7割方”田島”姓です ということは350年以上田島家の先祖が続き、豪族の娘4女は田島姓を名乗った可能性が高いのですねぇ