1963年発行の『守山市史』を読み返していたら次のような記述を見つけた。
「元文3(1737)年の御用水地図には、五ヶ村(川村・大永寺・金屋坊・幸心・瀬古)悪水とあり、「此の江先福徳三郷悪水と落合・庄内川を伏越六反川となる、」とある。」
これが本当であれば、重大な事実だ。というのも、三郷悪水(またの名を六段地江)は、寛政4(1792)年頃に庄内用水が御用水と一体化され、川村で取水されるようになった際に、同時に開削されたものであるという認識だった。
だから「元文3(1737)年」の地図に「三郷悪水」や「庄内川を伏越六反川となる」などと出てくるということは、庄内用水以前に、三郷悪水や福徳村から稲生村への矢田川伏越が存在していたということを意味するわけだ。
元文3(1737)年の地図であるというのは本当か。
守山市史が言っている「御用水地図」とは「御用水水路之図」のことだろう。確認したところ、同様の記述がなされていた。しかし同図には天明4(1784)年に開削された新しい大幸川が描かれている。だから元文3(1737)年の作というのは明らかに間違いで、少なくとも天明4(1784)年以降の図である。ちなみに、御用水を描いた絵図は他にも「御深井御用水江程全図」があるが、それと「御用水水路之図」は別物である。
I氏の資料に掲載された図(出典は不明)には、右下に「據奥村定所蔵図」と書かれている。尾張藩役人、奥村定兵衛のことだろう。奥村は文久元(1861)年9月に『奥村徳義旧蔵 御用水江之事條』と呼ばれる記録書を記している。であるからして、「御用水水路之図」は『奥村徳義旧蔵 御用水江之事條』の附図なのではないかと考えた。そうであれば、寛政4(1792)年頃よりも大分後になって作られたものだから、三郷悪水や伏越が存在していても、定説通りである。
他の可能性があるとすれば、奥村の所蔵ではあったが、調査のために収集したもので、自身が文久元(1861)年に描いたものではない、ということ。しかし先述の通り、少なくとも天明4(1784)年以降の図であるから、庄内用水が御用水と一体化される前の様子を描いているとすれば、天明4(1784)年~寛政4(1792)年の図ということになる。その間わずか8年と短いことから、その可能性は低いのではないかと思う。
というわけで、以上示したように、『守山市史』にて「御用水地図」が「元文3(1737)年」の地図であるとされているのは誤りであろう。庄内用水が先か三郷悪水が先か、という問題は市史の記述のテーマではないから、作成年の誤りはさほど影響はない。しかし私にとっては、これまでの理解が否定され定説がひっくり返されるかどうかという瀬戸際にいきなり放り込まれたのだから、大問題である。馬鹿野郎!元文3(1737)年ってのはどこからの情報だ。
27日 追記
建設省中部地方建設局庄内川工事事務所が出した『20周年記念 庄内川』という資料にも、同じ図に対して『原図元文3年ー1736ー」という註釈があった。しかしこれも、天明4(1784)年に開削された新しい大幸川が描かれているから、元文3(1737)年というのは明らかに間違っている。
『守山市史』は1983年、『20周年記念 庄内川』は1989年の発行。『守山市史』を参考にした可能性もなくはないが、他になにか共通の出典があるような気がする。
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