神島に、戦争の名残がこんなにも色濃く染み付いていたとは、全く想像だにしなかった。
しかし本土決戦をも想定されていた戦争末期において、伊勢湾そして中京地帯への入口に位する神島が、そこへの敵艦の侵入を防ぐ砦として半ば要塞化されることは、今にして考えれば想像に難くない事態だ。そして史実として、島内には幾つもの砲台や壕が築造された過去があり、その遺構が現在も残っているのである。
『三重の戦争遺跡』(三重県歴史教育者協議会, 2006)から、神島にあった軍事施設(全ての痕跡が残っているわけではない)について、その名称のみ引用してみよう。
・神島特設見張所跡
・平射砲台及び機銃座
・虎亀機銃砲台
・棒瀬機銃砲台
・井戸ノ上陣地
・東田陣地棲息壕
・東田陣地
・打越陣地棲息壕
・打越陣地
・神島観測所(監的哨)
・神島燈台官舎防空壕
・八代神社防空壕
・井戸ノ上防空壕群
・神島揚陸場跡
神島に残る戦争遺跡の中で、ひとつ特異な存在がある。監的哨だ。昭和4(1929)年に伊良湖試射場の一部である神島観測所として建てられた監的哨は、三島由紀夫の小説『潮騒』の舞台となったことで一躍知名度を上げた。観光ガイド等でも欠かさず紹介され、島を訪れる旅行者にとっては欠かせない見所になっている。それは当然知っていた。
だが、神島についての書籍や郷土史を幾つも読んだのに、監的哨以外に多くの戦争遺跡があるという話など、全く出てこなかった。だからこの小さな島に、まだそんな側面があったのかと、そんな時代があったのかと、驚いてしまった。民家の裏手に掘られた小さな防空壕とかならいざ知らず、軍隊の築いた施設が、実は沢山あったのだ。神島は民俗学的視点で捉えられることが常だから、関連がないとして排除されてきたのかも知れないが、それにしても全く記述がないのは不自然にすら感じてしまう。
が、兎に角も『三重の戦争遺跡』に非常に詳しく載っている通りの遺跡が、今も神島にひっそりと眠っているはずなのだ。あまり気軽に見て回れるものではないが、八代神社や灯台官舎跡の防空壕は見学も容易であろう。次の訪島では忘れずに。
そして、同資料によって字虎亀の場所が明らかになった。村絵図を原図とした白地図にて「??」としていたのがそれである。また、字棒瀬の丘の比定が誤っていたことにも気付かされた。『神島の民俗誌』(東京女子大学, 2004)の比定を誤っていると指摘しておきながら、自らもまた過ちを犯していたのである。インフルエンサーでなくて良かった。実際には棒瀬は島の西端の丘(これを通称とんび丘というらしい)を指す地名であった。訂正しておきたい。
虎亀をもって、神島全島の字が判明したわけである。鳥羽市の告示に出てくる「字乾」は分かっていないが、あの告示は海面を埋め立てて出来た新たな土地の地名を定めるものだった。神島で近年埋め立てが行われたのは漁港しかないし、同時に出てくる地名が「字東山」と「字虎亀」であることからも、それは間違いないだろう。となると、村絵図にて字の表記がないため「(集落)」としておいた集落部分がどうも怪しい。地名で乾といったらおそらく方角を表しているんだろう。集落が立地しているのは島の北西、あるいは北西に向いた海岸沿いだ。矛盾はない。てなわけで、
ということで。集落は家がたくさんあるから、その場所を言い表すのにもっと細かく字を分けておく必要がありそうだが、神島ではその役割を「セコ」が担っていた。だから、集落の中で海岸から離れた部分が別の字である可能性もなくはないけれど、おそらく乾ひとつで事足りていたのではないかと思う。『日本民俗学』193号「民俗学時間および空間認識の変化」(中山正典)によれば、平成3(1991)年の時点での神島の集落は第1~第4からなる町内会に分けられていた。現在もこの町内会が存続しているのかは分からない。
googleマップで検索したところによると、”神島町1”の八代神社に始まり、”神島町214”までの地番が建物ごとに振られているようである。一部は、”神島町207-10”のように分筆されている。なおこの地番は島全体に付けられており、例えば神島小中学校は388-3、監的哨は326-3といった具合だ。このように現行では、神島町以下の地名は全て数字のみで完結しているのであるが、字を使った場合には”神島町字野畑388-3”となり、これが神島小中学校の正式な地名ということになる。地番が島全体で統一して振られたことで、字の存在意義is何処になってしまったのだ。
神島の戦争遺跡については書籍『三重の戦争遺跡』に非常に詳しく載っています。
またインターネット上では
http://senseki3.kyotolog.net/三重の戦争遺跡/神島%E3%80%80監的哨
のレポートが参考になりました。