下中村の集落は、耕地整理や区画整理を免れ、古くからの細い道がそのまま残っている。
集落の東側に庄内用水中井筋が流れていた。そして中井筋から西へ分かれる分水のいくつかが、集落の中を通過していた。古い道が残っているということは、つまり同じように古い水路も残っているということではないか。
かつて水田が広がっていた集落の周りにも現在は住宅が建ち並び、かつての面影はない。灌漑の必要もないから、中井筋からの分水自体は廃止されている。つまり現在はその水路に水が流れることはない。しかし、集落内を通過していた中井筋からの分水の流路跡を追っていくと、そのほとんどに何らかの痕跡が残っているのだ。
今回はそんな中井筋からの分水の痕跡を見ていこうと思う。
中村本町5丁目の分水跡
中井筋からの分水については中井筋の記事でも触れている部分があるから、重複する内容があることについてはご了承を。特に中村本町5丁目にある中井筋から東側に向けての分水跡については、中井筋の方でかなり詳細に書いてしまっている。
まあ、今回のブログの中心は下中村の集落内に残る分水の痕跡、つまり中井筋よりも西側の話であるから、東側の分水については中井筋の記事を参照してもらうということでお願いしたい。別にそんなに長いわけではないので、軽く追ってみると、、、
その先、次の道路にぶつかるまでは舗装されている。
道路を越えると、そこからはもはや道ではなくただの隙間。夏になると草が生い茂り、とても入れる状況ではなくなる。
その先、現地で見るとだんだんとすぼまっていって消滅するという感じだ。
振り返ってみるとこんな感じである。
とまあ、現地の様子はこういった形で、短いけれども追ってみると楽しい。そんな場所である。
地図(土地宝典と暗渠マップ)
さあでは本題の、下中村の集落の方へ移動しよう。まずはこの地図を見て欲しい。これは土地宝典というやつで、黒で描かれているのが水路だ。画質が悪くて申し訳ない。
なんとなく土地の区画を見て、どこが集落だったのかということが分かる。「分水-1」などの名前は分かりやすいように仮に付けたものだ。これらの分水は名古屋暗渠マップにも描いたので、照らし合わせて、またもし現地を逍遥されることがあれば、どしどし参考にしていただきたい。
いざ本題「分水-1」を辿る!
中井筋を下流に向かって辿って行って、右手に気を配っていればおそらく見つけることが出来るだろう。開渠で残っているから結構分かりやすい。まあ、開渠とは言えども側溝みたいな幅のやつではあるが。
くぅぅ、夕日が眩しいぜ。なぜ夕日が眩しいかと言えば西を向いているからであり、この分水が中井筋から西へ向けて流れ出していたことが伝わりやすいよう工夫した結果なのであります。
と、そんな後付けの謎の理由は置いておいて、開渠が残っている、という重大事実を受け止めようではないか。耕地整理や区画整理にさえ巻き込まれなければ、こういう小さい水路でもどえりゃあ痕跡が残るもんですね。
水路には土や枯草が堆積しており、埋もれてしまうという状況では全然ないものの、水が流れる感じはしない。
中井筋から道路挟んですぐのところには、コンクリート製の何らかの構造物がある。中井筋の護岸に開いた穴からここに水が流れ込んできていたんだろうな。
開渠はその先も結構長く続いていっている。水路自体の幅は側溝と同じようなものであるが、敷地はその何倍もの幅があるので、現役当時はもう少し幅のある流れだったのだろうと思われる。下の写真は少し前のほぼ同じ場所の様子であるが、実はこの分水の敷地はかつてはでかめの草やアジサイが生い茂っており、なかなか開渠の様子を見ることができなかった。
アジサイが生えていたのは中井筋からすぐの地点であり、先ほどの夕日の写真と見比べてみると圧倒的に開渠が見やすくなったのが分かる。僕としてはこうして現状がよく把握できて喜ばしいことであったが、毎年アジサイの花を楽しみにしている方も何人かはいただろう。どんまいです。
さて、この先開渠をどこまでも追っていくことはできないので、反対側に回り込んで見てみよう。すると、、
うむ、開渠。土が堆積している様子はなく、なんなら雨が降れば今でも水が流れそうな雰囲気だった。雨の日に通ったことはないので実際のところは分からない。上流の幅広な水路敷から打って変わって、隙間を潜り抜けてきた!という感じがする。写真の手前に写りこんでいるように、開渠は雨水桝に接続しており、ここで一旦途切れることになる。
かつての水路はここで南(写真だと右)に折れ曲がり、南流し、次の道を西(流下方向右)に曲がっていた。南流していた部分のみの水路が失われている。
では再び登場する分水の痕跡を追っていこう。
暗渠である。これはあくまでも中井筋からの分水の痕跡であるのだが、道の側にある溝だから、もはや側溝であると言ってしまって差し支えはない。しかし分水が流れていた場所以外にはこうした側溝は設置されていないのだから、「この側溝は用水路の痕跡です」と紹介するのが最適解だろう。
家の塀から塩ビ管が延びて、側溝へ接続している。ここの分水がなぜ埋め立てられず側溝として残されたのかということの理由は、僕はこれにあるのだと思う。つまり、家の脇に水路があったので、雨水などはそこに流し込むようにパイプだの溝だのを作って各家排水のために使っていたのではないか。だから、農業用水としての役目が終わったからと言っていきなり埋め立てることもできず、こうして幅を狭めて、側溝として今まで残されてきたのではないだろうか。
暗渠は道の南側に沿って続く。上の写真、奥に見える小さな建物の中にはお地蔵様が鎮座している。話は逸れるがご登場いただきましょう。どうぞー!
この地蔵はもちろん「尾張の地蔵・宝塔マップ」にも登録してある。「尾張の地蔵・宝塔マップ」は尾張国(愛知県西部)の北部一帯を中心に、お地蔵様と宝塔を網羅しようという無謀(かどうかはまだ分からない)なチャレンジである。ということでちょっと話を逸らして宣伝でした。一銭も儲からないけどね。
さて、地蔵の横を通り抜けた分水の暗渠は、その先しばらく続いていって、かつての下中村の集落の端ではたと途切れる。ここから先は区画整理がされているエリアであるから、先ほど述べた排水路を残すという意味においては、ここまで残っていればいいわけである。最後、フレーチングのサイズが少し大きくなっているが、おそらくこの下で下水道へと流れ込んでいる。名古屋市の下水道は合流式で、雨水も直接下水道に流れ込む。だから街中でこういう側溝に出会うことは珍しく、側溝を見つけた場合には、それがただの側溝ではなくて用水路の痕跡であるかもしれない、ということを意識してしまう。
ということで、ここまでが「分水-1」が開渠や暗渠といった形で現存している区間である。ここから先は現存はしていないものの、流路の跡になんとなく名残があるのでそれを紹介していく。ここで最初の地図を再掲しておく。
「分水-1」を辿っていくと、最後南向きに流れて「分水-2」に流れ込んでいるのが分かる。今から追っていくのはこの南向きに流れていた部分で、この場所は土地宝典の地割からもなんとなく分かるように、水田(西側)と集落(東側)の境目になっていた。なので、区画整理された場所とされてない場所の境目がこの水路ということになる。
現地の写真を基に図解にするとこんな感じ。暗渠が途切れた地点の少し先で南に折れ曲がっている。
その先、この辺を流れていた。住宅の脇の隙間がその名残なのかどうかは分からないが、位置的には重なっている。また、先ほどの図解で「北から合流する流れ」というのを書いた。これは土地宝典にも一応載っている流れで、ちょうど写真に写っているところに痕跡がある。それがこれ、、
橋っぽいなにか。いや、「なにか」というか、橋か橋でないかの二択でしかないのだが、北側に同じ幅の怪しい隙間が存在していることから、これは水路に架けた橋(蓋という表現の方が合ってるかな)ではなかったかと考えている。
何本か南の道に移動して、「分水-1」の流路と一致する集落と区画整理実施エリアとの境目を見てみる。下の写真のところは、水路跡ってことよりはもはや、区画整理で出来た太い道と集落内の細い道の落差、その道同士が絶妙にずれていて接続していないという滑稽さ、区画整理側から見たときのどんずまり感が面白い。
双方の道は接続はしていないのだけど、おそらく角の方が通行できるようにしてくれていて、私有地を跨ぐ形で通り抜けられるようになっている。
ではこんな感じで「分水-1」はおしまいとさせていただく。
「分水-2」を辿る!
再び土地宝典を載せる。「分水-2」が残っているのは中井筋から分かれて最初の直線区間のみだ。しかしそこでは素晴らしい光景が通る者を待ち受けている。
それでは早速、中井筋から眺めた様子
わくわくする、当然入っていく。日本語の定義においては不審な行動をしている人=不審者ということだろうと思うので、こういうとこに侵入するときは、自らの行動が不審に見られないように用心すべきである。いかにも正しいことをしています、という表情と心持が大切であると思われる(知らんけど)
味がある。言うことなし
奥に見えてきた木の生い茂っている場所は日吉保育園である。中井筋には惣兵衛川という別名があるが、それは用水を改修した横地惣兵衛という人に由来するもので、そしてその横地惣兵衛さんの子孫がこの日吉保育園を経営されているのだそうだ。
さて、この水路は道にぶつかって、日吉保育園に沿った位置を南に流れていた。下の写真で言うと右側だ。これといった痕跡は残っていないが、かつての集落内に位置するこの場所において、他よりも道幅が広いのは並行していた「分水-2」の水路を埋めたからだろう。
「分水-3」を辿る!
と題してみたはいいものの、実は「分水-3」は痕跡が少なくてあまり辿れない。ちらっと見に行ったことはあるんだけど、写真も撮っていない。ということで、一枚だけGoogleマップのストリートビューより画像をお借りしてご紹介しよう。
「分水-3」の跡で唯一、暗渠が現存している場所。暗渠の上流側には隙間が続いている。暗渠とは言っても例の側溝みたいなやつですがね。これでも立派な痕跡です。
ということで、下中村の集落内にて耕地整理や区画整理を免れて残った、中井筋からの分水をいくつか辿ってみました。以上であります
土地宝典は名古屋市鶴舞中央図書館が所蔵しているものです
写真は撮影日が複数分かれていますが、いずれも2018年以降ものです
コメントをお書きください
やおもておいみ (土曜日, 22 1月 2022 00:26)
くぅぅ、眩しい夕陽に照らされたいぜ!待ってろ中井筋分水1!!
Yaura Wakami (金曜日, 22 7月 2022 02:17)
>やおもておいみ様
コメントありがとうございます。お返事が遅くなりごめんなさい。ぜひ一緒に中井筋辿りましょう