笈瀬川と中川運河は共存していた

中川運河は笈瀬川を運河に転用したものである。笈瀬川の下流部は中川という名前で呼ばれていて、それが運河や区の名前の由来になった。

 

かつての笈瀬川・中川は細かく蛇行していた。でも中川運河はかなり幅が広いので、運河とその東西に沿う工業地帯の整備によって、蛇行の跡はほとんど飲み込まれてしまった。

 

運河にならなかった上流部の笈瀬川は下水幹線(笈瀬川幹線)に転用されて、露橋水処理センターへ流れ込んでいる。

 

 

ーーー最近、いくつか興味深い資料を見た。

 

 

笈瀬川を埋めて、川とその堤の敷地を道路に転用する際の申請書である。

 

図面1は昭和10年、市道の路線を認定する際の諮問に附していたもので、「本案を提出したるは笈瀬川敷に下水管を埋設し埋立てたるに因り、道路の形態を為すに至りたるに依り、爾後道路として管理せむとするに由る。」とある。笈瀬川が下水幹線になったのは遅くとも昭和8年3月までの話であり、そこから少し期間が開いたのは何故だろうか。まあ、一定期間は川でも道でもない状態だったということなのかな。

 

図面2は「溝渠並堤塘用途廃止ノ件」というタイトルで提出されたもので、笈瀬川を埋めますよ、という図面である。昭和9年のもので、立案は同年4月19日。「本案を提出したるは下水管を埋設し埋立テタルニ依り、将来道路として管理せむとするに由る」とあり、またこちらは同時に市道への認定も行われたようで、前日付で「市道路線認定並廃止ノ件」が立案されている。そちらには「本案を提出したるは笈瀬川敷に下水管を埋設し埋立てたるに依り、隣接市道と一帯を為すに至りたるを以て市道を整正統一せむとするに由る」とある。笈瀬川の跡を道路に認定すると同時に、かねてより笈瀬川に沿っていた道の認定を替わりに取り消して、1本に統一するという内容だ。

図面1
図面1
図面2
図面2

 

 

申請書の図面には中川運河が描かれている。つまり笈瀬川敷が埋め立てられ道路になったのは中川運河が完成した後のことだったということだ。中川運河の完成はいつだったかと調べてみたら、大正15(1926)年に着工、昭和5(1930)年に竣工していた。笈瀬川の下水幹線化を含む西部下水道幹線築造工事は、昭和4(1929)年に着手され、昭和8(1933)年までに全ての工事を終えている。笈瀬川が暗渠となったのは昭和7~8年ごろだと思われる。ということはつまり、昭和5年に中川運河が完成してから数年間は運河と笈瀬川とが共存していたってことだ。下流部においては川の蛇行もろとも運河敷に取り込まれたので共存もくそもないのだが、露橋のあたりでは中川運河とかつての笈瀬川の流路にかなりズレがあり、笈瀬川の方が東側を流れていた。資料によると昭和9年まで。だから運河と笈瀬川とが同時に存在するということが可能だったわけだ。

 

(参考:名古屋暗渠マップ[https://www.google.com/maps/d/u/1/edit?mid=1QFWtbLPbllqH0jT6TkCig30a1vwy6kM4&usp=sharing])

 

笈瀬川は川だから、当然上流から水が流れてくる。かつては中川を経て直接海まで流れ下っていた。その部分が運河になったわけだから、普通に考えれば、笈瀬川の水は運河に流れ込んでいたはずだ。取り残されたのは運河化されなかった上流部と、露橋の辺りの運河より東側を流れていた笈瀬川。この2つは、下水幹線になったり埋め立てられたりするまでの数年間、それぞれ下流端で中川運河に流れ込んでいたのではないか

 

いや、流れ込んでいたのである。断言しよう。露橋の辺りを流れていた運河より東側に取り残された笈瀬川については。「中京土地区画整理組合地区整理面」という資料がある。中京土地区画整理組合は対象15年に設立され、昭和9年に換地処分、解散は昭和16年であるが、この図面がいつごろのものかは正確には分からない。換地処分よりは前のものだろう。ここに決定的なものが描かれている。暗渠だ。運河は既に完成しているが、運河東側の笈瀬川もまだ川として普通に残っていて、佐屋街道に沿って堀川へ流れていく新堀割(笈瀬川の水害対策として掘られた排水路、笈瀬川からの分水)も残っている。注目すべきは笈瀬川本流の方で、下流を辿っていくと中川運河沿いの中川運河沿線土地区画整理組合地内に入った地点から暗渠となって運河へ接続しているのが分かる。図中では中川運河地帯と書かれているところだ。暗渠には「市設暗渠」と書いてある。区画整理は基本的にそれぞれの組合により行われるものだが、中川運河は市が作ったものだし、運河開削の土砂を以って沿線を埋め立て工場用地を生み出すということで、区画整理についても一体的に行われてただろう。笈瀬川の水は名古屋市の設置した暗渠を流れて中川運河へと注いでいたのだ。

 

中京土地区画整理組合地区整理面
中京土地区画整理組合地区整理面
笈瀬川とそこから運河へ繋がる「市設暗渠」
笈瀬川とそこから運河へ繋がる「市設暗渠」

 

対岸には徳左川がある。これも中川運河に流れ込んでおり、図面にも描かれている。中京の地区内では開渠となっており、そこから運河までの区間は暗渠になっている。東進耕地整理組合の地区内(図中ではなぜか「露橋地区」とある)を通過しているのだが、その部分は「中京設置」となっており、その先の運河沿線のところは「名古屋市暗渠」となっている。東進耕地整理の地区内であっても中京からの川を流すから暗渠の設置は中京でやりますよ、ということだったのか。そして運河沿いにおいてはやはり名古屋市が設置をしていたということらしい。おそらく米野井筋についても(範囲外なのでこの図面では分からないが)同じようにやっていただろう。

対岸の徳左川下流部の暗渠についても描かれている
対岸の徳左川下流部の暗渠についても描かれている

 

ということで、先述の笈瀬川からの暗渠が中川運河に接続するところを見に行ってみたら、なんと!なんとなんと、今も暗渠が残っていた。穴が開いていた。

現存していた!

穏やかなみなもの向こうに穏やかならぬ衝撃の発見が
穏やかなみなもの向こうに穏やかならぬ衝撃の発見が
なんと!!!!!
なんと!!!!!
ででーん!!!!!!!!!!!!
ででーん!!!!!!!!!!!!

 

撮影は対岸のバーミキュラビレッジから。最近オープンしたこの施設はシャレオツな感じなのもいいけど、それ以上に運河に近づけるということのメリットがでかすぎる。今回この笈瀬川接続の暗渠を発見できたのも、バーミキュラのおかげである。だいたいこの辺りは工場や倉庫ばかりで運河へは全く近づけないし、丁度近くに橋もない場所だからバーミキュラがなければ見ることはできなかっただろう。ありがとうバーミキュラ。

バーミキュラ(右下)
バーミキュラ(右下)

 

一方で上流からの笈瀬川が合流していたであろう、露橋水処理センター対岸の辺りには、現在はなんの痕跡も残っていない。というかそもそも、こっちについては図面とかで接続していたことを確認したわけではないので、その点についても確証はない。もしかしたら運河の整備に併せて下水管を作っていたとかで、流れ込むということはそもそもしていなかった可能性もある。下水管は運河の下をくぐりぬけて露橋水処理センター(設置当初は処理はしておらず、露橋抽水場と呼ばれていた)にやってくるのだから、管の設置は運河が完成する前にやった方が圧倒的に楽だったろう。ということで、そこらへんはよく分からないけど、とりあえずこっちにはなんにもない。

接続していた様子はない
接続していた様子はない
運河をくぐって露橋抽水場に流れ込む笈瀬川幹線
運河をくぐって露橋抽水場に流れ込む笈瀬川幹線

 

 

つうわけで、またすごい発見をしてしまった。最高じゃないか。中川運河にはたくさん穴が開いていた。米野井筋、徳左川、長北用水、そして笈瀬川。徳左川の穴はふさがれちゃったけどね。

米野井筋の暗渠と鴨
米野井筋の暗渠と鴨
埋め固められた徳左川の出口
埋め固められた徳左川の出口
長北用水
長北用水

 

あ、あと、中井筋松葉分水(仮)も中川運河に流れ込んでるっぽい。っぽいってことしか分からないのは近くから見ることが出来ないせい。対岸にバーミキュラみたいな施設が出来れば運河に近づけるのになあ。今後の再生事業の一環で商業施設ができるのに期待したいね。あ、でもその再生事業で張出護岸が整備されつつあって、そこがプロムナードになるみたいだけど、ということはつまり暗渠が繋がっている穴が埋められてしまう可能性があるってわけ。いまのところ、どの暗渠も被害は受けていない(徳左川はそれと関係なくなぜかふさがれた)けど、なんとか保存してほしい。プロムナードは大賛成だから。両立できるはず。石組みの護岸も笈瀬川や米野井筋の暗渠の穴も、昭和初期からの歴史的な遺産だと思う。運河沿いに立ち並ぶ倉庫が歴史的価値を認められ復元までなされたのに、運河そのものに価値がないはずがないだろう。

 


文中の資料は全て名古屋市市政資料館の所蔵である