17日のブログ(八ヶ村用水について(導入篇)で「一部期間だけ使用された庄内用水の流路が後に八ヶ村用水になったかもしれないということだ。双方が特に上流部においては同一のものである可能性があるのだ。」と書いたが、それについてひとつ気付いたから書いておく。
庄内用水の取水位置が川村に移ったときの記録(尾張徇行記)に「寛保2戌年(1742)川村に新規杁長12間巾9尺高5尺巾1間高4尺2腹伏」とある。この時既に御用水は川村で取水していた。後の村絵図に描かれている杁が御用水兼庄内用水のものと、□ヶ村用水のもの、2ヶ所のみであるということはつまり!!寛保2年に完成した「新規杁」が□ヶ村用水のものと同一であるということなのではないのか。
その場合、庄内用水として掘られた水路を後に□ヶ村用水に転用した、つまり双方の流路は同一であったと考えることが出来る。さらに、庄内用水開削の際に「新規」で杁を設けたということは、それ以前に元となったような用水路は存在していなかったと推測される(→つまり、先日ひとつの説として書いた「①御用水の開削(寛文3(1663)年)以前から川村で取水する農業用水が存在しており、その用水が8村を灌漑する「八ヶ村用水」であって、御用水開削後もその名前が使われた。」は否定されることになる。また、「後に開削された川村から山田村、大幸川に至る庄内用水の流路は、かねてより存在していた水路を改修したものだったかもしれない。」という記述も否定できる。)
しかし難しい。もしかしたら川村にはかつて、御用水の杁、庄内用水の新規杁、の他にまだ杁があったかもしれない。それが、御用水と庄内用水が統合された後に、それまでの庄内用水の杁と統合されて□ヶ村用水となったのかもしれない。まあそこは知らんけど。あくまで仮の話です。
でも、上に書いた話はめっちゃ大きな気付きです。以上!
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