考えを改めました

 

以下の文章にもあるように、庄内用水について、川村から独自の伏越で矢田川を越えて山田村へ至り、大幸川へと流入していた流路は、実は存在していなかったのではないか、という考えを持っていた。しかしながら、Ⅰ氏に教えを乞うたところ、「大幸川経由で庄内用水が送られたときは、御用水とは別の水路だったと考えている」とのことで、僕自身もよく検討した結果、具体的な経路については依然不明であるものの、存在自体を否定するべきでないとの結論に至った。

 

よって、庄内用水の項の追記(2021/01/23付)と大幸川の項の該当する箇所の内容を書き換えるとともに、ここにその記録として、今日までの間記載していた文章と図を転載しておくこととする。


 

<庄内用水の項に書いてあった内容>

 

 

2021/01/23 追記

 

上記の内容は名古屋歴史ワンダーランド「庄内用水」の年表によるものであった。しかし、川村から大幸川までの流路については瀬古村と山田村の間で矢田川を越えたということ以外の情報がないため全く分からず、また矢田川を伏越のはかなりの大工事だっただろうが、それが御用水のものと2つも存在していたかどうかというのも疑問だ。先に御用水という格好の水路が出来ているのに、近い位置で取水する用水をわざわざ違うルートで開削するだろうか。要するに、この話が実際にあったことなのか、その真偽を疑っているわけである。

 

その後の調べで出典になったと思われるいくつかの記述を見つけた。 守山市史(守山市は守山区の前身)の御用水の項に以下のようにある。 「寛保二戌年(1742)には、稲生定井(稲生用水)井高三万三千八百石余が川村定井に付け加えられた。この年(寛保二年)に川村に新規杁長十間、巾九尺、高五尺、長十二間、巾一間、高四尺の二腹伏せ、また矢田川の守山と山田の間に伏越水筒長百二十間を伏せ、それより大幸川井筋え落し込み、稲生井筋へ用水え用水を通じた。その時稲生村の杁はのこしおき、川村よりくる水にて不足のときはこの杁より助水を通じた」(原文ママ) 「御用水路は後年八ヵ村用水路と合併しこんにちにいたったのであるが、この辺の事情はまだはっきりわからないので、後日の研究に待つこととしたい」

 

さらに大正4-5年に発行された名古屋市史地理編の江川の項には以下のようにある。

 

「尾張志〇金府紀較、寛保二年の條に「江川の水、稲生村の定井を潰し、瀬古村より山田村ェ大川の底に埋杁を伏、山田村掘割を附、江川ェ水を取、三月出来」と見えたり、或は御用水より引けるを指せるか、詳ならず」

これらの記述を踏まえると、庄内用水の取水位置が川村に移った当初から、その流路は御用水を使用していたかもしれない(下図、説2)という可能性も考えなければいけない。その場合大幸川を使用していたのは御用水から江川に至る区間のみだったということになる。そしてそうでないならば、川村から大幸川へ至る具体的な流路が特定できなければならないし、何れにしても間違いがないのは、今後も調べが必要であるということだ。

 

寛保2(1742)年から天明4(1784)年までの庄内用水上流部はどう流れていたか(原図:明治26年発行の旧版地図)
寛保2(1742)年から天明4(1784)年までの庄内用水上流部はどう流れていたか(原図:明治26年発行の旧版地図)

 

<大幸川の項に書いてあった内容>

 

庄内用水ははじめ稲生村で庄内川より取水していたものの、土砂の堆積によりそれが取水が難しくなってきたため、寛保2(1742)年に取水位置を上流の川村(守山区)に移動した。このとき新たに瀬古村と山田村の間の矢田川を伏越(暗渠)でくぐらせる工事を行い、矢田川を越えた水は大幸川を流入させ稲生村で従来の庄内用水へと接続する形(下図、説1)になった。

ーーーと言い切ってしまいたいところなのだが、言い切ってしまえない事情がある。 まず、川村から大幸川までの流路については瀬古村と山田村の間で矢田川を越えたということ以外の情報がないため全く分からないこと、また矢田川を伏越すのはかなりの大工事だっただろうが、それが御用水のものと2つも存在していたかどうかということも疑問だ。御用水というのは寛文3(1663)年に名古屋城のお堀の水の確保や名古屋城西側の幅下方面への飲料水供給のため開削された水路で、庄内用水の新たな取水位置と同じ川村で取水をしていた。先に御用水という格好の水路が出来ているのに、近い位置で取水する庄内用水をわざわざ違うルートで開削するだろうか。

 

このあたりの疑問については、例えば守山市史には「この辺の事情はまだはっきりわからないので、後日の研究を待つこととしたい」とあって、これまでの地誌などでは曖昧なまま放置されてきたと言えよう。大正4-5年に発行された名古屋市史地理編の江川の項には以下のようにある。

「尾張志〇金府紀較、寛保二年の條に「江川の水、稲生村の定井を潰し、瀬古村より山田村ェ大川の底に埋杁を伏、山田村掘割を附、江川ェ水を取、三月出来」と見えたり、或は御用水より引けるを指せるか、詳ならず

ここでは後半の「或は御用水より引けるを指せるか、詳ならず」の部分に注目したい。庄内用水は新たな流路を開削したのではなくて、御用水を使用して水を引いた(下図、説2)のではなかったか、という指摘である。もちろん断言は避けられているし、私としても断言は避けたいが、この可能性も大いにありうると思うのだ。御用水と同じ水路を使って送水していたとしても、庄内用水の下流部へは最終的には大幸川を使用しなければならない。だから、「大幸川を経由して稲生村で従来の庄内用水に接続していた」という点はどちらの説をとっても変わらない。

明治26年発行の旧版地図を元に作成
明治26年発行の旧版地図を元に作成

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コメント: 2
  • #1

    takehiko kato (月曜日, 05 7月 2021 15:36)

    江川の資料を探索中,偶然本サイトに当たり,拝見しました.
    以下,参考情報です.
    天保12年(1841)の山田村絵図の新川(明和4年(1767)の洪水後の矢田川)の右岸と左岸,古川(洪水前の矢田川)の左岸に杁が描かれています.伏越があった事はまず間違いないと思います.
    但し,Yauraさんが「明治26年発行の旧版地図を元に作成」に説1の青い線で描かれている推定位置より下流の下街道が矢田川を横断する地点です.
    以上,もしご研究の参考になれば幸いです.
    なお,天保12年の村絵図は,愛知県図書館や名古屋市鶴舞図書館などで閲覧できます.

  • #2

    Yaura Wakami (月曜日, 05 7月 2021 18:53)

    takehiko kato様、コメントありがとうございます。

    庄内用水の流路は、はじめは御用水と異なるものだったということを思い直してから、庄内用水の記事(https://www.ankyo.nagoya/guide/shonai-yosui/)を書き直しました。そちらにご指摘の山田村絵図とおそらく同じものを掲載しているところです。私もこの南北の杁が伏越の痕跡である可能性が高いと思っています。

    ただその前後の区間についてはやはり流路が分からず、地籍図などを見れば分かるかな~と思いつつ中々見に行けていない状況です。今後ともよろしくお願いします。