最近、精進。

興味というのは意外な方向に移り変わるものである。自分にだって全然予想できない。

名古屋の暗渠が好きである。この意識はずっと変わらず根底にある。小学校のころから。そして最近、暗渠の研究に没頭し始めてからももちろん同じである。

名古屋暗渠マップを描きはじめてからは、その描写にあたっていろいろ調べる必要があるのも会って、興味をもったエリアを広げていく、あるいは広げたいエリアについて調べてそれで興味を持つ、といったことが多い。

 

夏。今年の夏の暑さの中で、僕は春日井に通った。なんども自転車で行っては現地調査、写真を撮って、やれいい分水だ、やれ稲が少し育ってきたななんて。詳しくなると郷土誌に対する感情も確実に変化するものである。郷土の歴史というのは基本的にそこに住んでいる人かなんらか縁のある人には興味関心の対象となりうるが、そうでないものにとってはあまり価値のないものである。僕も春日井市内の地理については全く知識がなかったから、最初に春日井市図書館に行った際は用水、河川関係の資料や記述以外には目も留めなかった。しかしいろいろ調べていって、そして何度も現地を訪ねた。そうして2度目に訪れたときに「郷土誌に対する感情の変化」を感じるわけである。同じ内容でも、読んだ時点で持ち合わせている知識、興味関心の幅によって全く違う捉え方になる。だから、一度読んだことのある資料であってもひさびさに読み返してみると新しい発見があったりする。

春日井市図書館
春日井市図書館

 

 

興味は移り変わる、と言った。完全に春日井に振り切っていた夏の自分に反発するように、僕の興味関心は名古屋市内へと引き戻された。徳左川と中井筋の記事を大幅修正。特に中井筋の文章についてはまだ未完成ではあるものの、現段階で素晴らしいものが書けたのではないかと思う。市政資料館で耕地整理の確定図もたくさん見た。暗渠マップも多く拡充されたし、下米野の悪水路が勘右排水本溝であるという大発見もあった。

 

そしてここ数日は、精進川の上流部についていろいろ知ることが多い。精進川というのは新堀川の前身となった河川で、その上流部というのは今の新栄から丸田町にかけてのエリアのことである。この興味が小さな波となるか、あるいはビックウェーブとなるか。さてそんなことはどちらでもいいとして、ここからが本題である。

いつなにを調べ、なにを知り、そしてなにを調べ、、、というのは記録しておく価値があると思った。それは研究としての体裁のためでもあるし、自分が後から見返したいという思いもある。今自分が持ち合わせている知識を整理するというのも併せて、一旦文章にまとめてみた。

新堀川の上流端。硫黄のにおい
新堀川の上流端。硫黄のにおい

精進川上流部について(これまでのまとめ)

名古屋暗渠マップを描きすすめるにあたり、新堀川、そして精進川についてもプロットした。

精進川の流路は明治24年の国土地理院地図を元に、今昔マップで重ね合わせてそれを見ながらプロットした。そもそもが旧版地図ということもあってあまり正確ではなかった。 この時点での知識は、

・精進川は新堀川の前身となった川である

・新堀川開削後も16年間程度は存在していた

というようなことであったと記憶している。

 

新堀川の堀留から掘割が続いていてそれが精進川上流部の水を集めていたというのは、掘割そのものの存在はなんとなく認識してはいたものの、具体的なことについては特に知らなかった。地図へのプロットもしていなかった。

 

 

2020年9月12日、鶴舞中央図書館にて「土地宝典[中区(旧制)/昭和9年]」を見る。

精進川上流部の具体的な流路に触れる。この地籍図を元に1947年の航空写真を確認したところ流路が確認できたため、国土地理院地図上にてkmlファイルを編集し、より正確なものとした。また掘割と上流部とがどう接続していたかの詳細も分かったため、そこを一体的にプロットすることとし、精進川下流部を切り離した。前者は青、後者を水色とした。(色分けの基準については名古屋暗渠マップの概要欄を参照のこと)

土地宝典に描かれた掘割。左が新堀川、右上から流れ込むのが精進川上流部
土地宝典に描かれた掘割。左が新堀川、右上から流れ込むのが精進川上流部

 

 

2020年9月16日、鶴舞中央図書館にて「堀川の研究」を読む。

⑯沿岸の工場と排水に役立った新堀川(Ⅱ)に

精進川上流部を流川とよび、今のCBC東部を南に流れていた。葵町(現在の1丁目)の蓮池の水や建中寺西堀の水、相生町裏(西側)の溝水、猫ヶ洞の落ち水、車道や奥田町の溝水も流れこんでいた(名古屋市史)。 しかし中心となった流れは山吹谷一帯の湧き水で、養念寺の裏庭に残る「鳥が池」はその名残りである。流川下流部を新川といい旧御器所村地内。このあたり流路の屈曲を改修し直線的にした形跡があり、その名を新川と呼んだのはこうした訳であろう。」とある。

同頁に掲載の地図からも読み取れるが、下流部を精進川、中流部を新川、上流部を流川と呼んでいたことが分かった。 この情報をツイートにも反映させた。

上流から流川、新川、精進川とある[©堀川の研究]
上流から流川、新川、精進川とある[©堀川の研究]

 

2020年10月1日、西図書館にて「小川の歴史/小川同窓会」を読む。

「小川の水錆」という文章の中に以下のようにある。非常におもしろい文章でまた興味深い内容も盛りだくさんだと感じた。いくつかに分けて書く。

「諸君は流川筋をずーっと南へ下がって西境町につき当たる手前、右側に一宇の地蔵堂を思い出されるであろう。丁度、ここに東から西南に流れる溝渠のあった(以前は開渠)ことも覚えていられるだろう。」

→(以前は開渠)ということは暗渠化されていたということだろうか。溝渠というのはつまり暗渠という意か。

 

本当の「流れ川」というのは、今の流川すじ近傍を流れていて、地蔵堂のほとりで合流、東陽町筋を横切って丸田町へ出、掘割に入って、新堀川の堀留に注いだものだった。合流点がどこか判然としないが、名古屋市史には東陽町筋だったという。では地蔵堂の前の川というのは何という名なのかの、~後略」

→流川という名前は流川筋近傍を流れていた。新堀川に合流するまでの区間をそう呼んでいたようだ。

 

「土地(流域)の人たちは「玄海川」と名付けていたのだった。この溝川も昔は用水路として「下(しも)」のほうで活用していたのだろうが、幼い頃はもう悪水路と化していた。」

→ここで初めて玄海川という名前と出会った。単純に精進川上流部を流川といったわけでもなさそうである、ということである。出典の名古屋市史も確認するべきと思う。

さらに玄海の由来については、

「この川は円教寺住職「玄海和尚」の開発から、名をとったと伝えられているそうだが、実はこの和尚さん、それ以前の方だそうで、何等拘わりはござんせんとのこと。ならば、なぜ、その名がついたかといえば、玄海和尚の学徳智行すべて衆に勝れ、よく人口に膾援の手を差し伸べたことから、いつの間にか、あの辺り一帯に和尚の名をつけてしまったため、そこを経由して流れるこの川にも冠せられたものと推測する。」としている。

 

「小川の歴史」より。玄海川と書いてある [©小川同窓会]
「小川の歴史」より。玄海川と書いてある [©小川同窓会]

 

さらに、以下の通りある。

「さてこの川は地蔵尊の橋下をさやさやと潜り抜け、南瓦町の南端にあった今泉メリヤス工場の塀に沿って流れ、東陽町を過ぎるところに架かっていたのが、「元瓦橋」というのだそうで、長さ二間七寸、幅三間三尺九寸(3m85cm×6m64cm)あり、東陽町筋は明治29年に開通し、その後の暗渠化で橋は撤去された。川はここから丸田町へ出て堀留へ注いでいた。」 「丸田町から堀留までは昭和の初期まで、石畳式の掘割が500mほど続いていた。「堀留」というのは、明治41年ごろ、昔の精進川を改修し、新堀川を開鑿した時の最終端の場所だった。」

堀留からの水路を掘割というのもこの資料が初見であった。石畳式であったようで、それが少しだけ写った写真が「明治の名古屋」という写真集に掲載されていた。同じく2020年10月1日、西図書館にて閲覧。

右端が新堀川へと流れ込む掘割[出典:明治の名古屋]
右端が新堀川へと流れ込む掘割[出典:明治の名古屋]

 

橋の名前が出てくるのはこの上なく嬉しいものである。「元瓦橋」の他に、「築城より約120年後の地図」というのに「スジカイバシ」がある。流川(かその傍流)と飯田街道との交点にかかる橋だと思われるが具体的な場所はまだ不明である。玄海川と19号線の旧道との交点は「白山橋」、市電の電停もあったようである。

 

疑問:玄海川についての記述を読むと新堀川までの区間を言っているようにも見えるが、玄海川が流川の支流なのか、あるいはその逆で、流川が玄海川の支流なのか。「堀川の研究」という本の内容を踏まえれば前者のように思うがどうか。

思い:新川、というのは例えば笈瀬川でいう新規堀みたいな所謂「とも言われた」という類のものだと考えるがどうか。基本的には精進川で統一されていたのではないかな。

 

 

以上2020年10月6日執筆、ここ数日の経緯をまとめた。