歌島は人口千四百、周囲一里に充たない小島である。ーーー
『潮騒』より
ただ神島が好きなだけの人間が、いわゆる素人の知識でもってして、色々と調べてみたところによる先人の記録や研究を、何の脈絡もなく書き連ねてまとめ、またそれに関連する疑問点を、自分自身の現段階における神島についての覚書としてここに書き残すものである。したがってこのブログは、そもそも暗渠に関するものでも名古屋に関するものでもなく、また内容としても一貫した物語がなく、読み物としての面白味は全くその片々を電子顕微鏡を以てしても発見せしむることは不可能と言わざるを得ない。しかしそれは今更どうしようも無いことなのである。
・祝いが浜:八畳ヶ岩以南の浜。古里(ごり)の浜(古里が浜とも)とほとんど一体になっているが、別で名前がついている。ゴードが浜(ゴウドの浜)とも(※)。「八丈島より神宮台との間の海」(『神島』神島青年団)とも説明される。
・神宮台:弁天岬の一部?
※神宮台がどこを指すのか分からないので何とも断言できないが、『神島へようこそ』の「神島略図」には祝いが浜と岩を隔てたひとつ南側に「ゴードが浜」と書かれている。航空写真では浜というより磯という表現があっているような雰囲気が見受けられるが、どうか。
・ナガハマ:長浜か。大学大学院森林風致計画学研究室の「三重県 鳥羽市 神島町の漁村景観」内f.23の地図にて、ゴリガハマとイワイガハマの間に書かれている。八畳ヶ岩までが古里ヶ浜と思っていたが、もっと細分化した名前だ。古里ヶ浜の一部をこう呼ぶこともあるのか、それとも古里ヶ浜とは全く別なのか。
・赤鼻峠:赤鼻峠なのか鼻赤峠なのか
・コーバ山:神島小中学校の裏山を云うが、近年その裏山を削って新校舎が建てられた。←コバ山ゴードウ寺という尼寺があったとの口碑あり。
・灯明山:標高171m。読みは「とうみょう」か「とうめ」か。江戸初期、幕府が河村瑞賢に命じて神島に灯台を建設、これが灯明山の山頂にあり。名の由来か。明治6年廃止。
・おもとガ原:神島の東海岸太平洋に面する絶壁。原という感じはないが、そういう言い方をしたのだろう。(『神島』神島青年団)
・東磯:オーカの北側を取り巻く海辺をそう呼んだらしいが、現在は埋め立てられて港の一部になっている。
・鈴が浜:東磯の東、島の真北にあった浜である。60年代の航空写真だと砂浜になっているのが分かるが、その後消波ブロックがずらっと並べられてもはや浜ではない。そもそも神島は漁港のある場所も全部砂浜だったわけで、全体で随分砂が減ったものである。
八代神社について
三重県神社庁教化委員会のページより
由緒「明治6年3月村社となり、同39年12月神饌幣帛料供進社となる。」
「明治40年11月25日、境内社山神社、同神明社・同津島神社・同秋葉神社・同春日神社・同三社合殿龍山白山富士山神社・同浜宮神社・同住吉神社・同弁財天社・同風宮神社・同金比羅神社・同鎮守神社・字井戸の上無格社八幡神社を合祀の上、八代神社と単称するの許可を受け、同年12月1日合祀する。」
明治40年は西暦1907年である。
鳥羽市観光情報サイトより
「創立年代は不詳であるが、『外宮旧神楽歌』に「神島のなおしの明神」という記載が出てくる。また、『志陽略志』には「八幡宮神島村に在り。白髭明神、弁財天、風の宮、鎮守社、山神、禿宮在り」と記されている。明治40年に、山神社、神明社ほか11社を合祀し八代神社となった。」
江戸時代には明神と呼ばれていて、八代神社の呼称は比較的新しいらしい。もしかしたら明治40年11月25日に「八代神社と単称するの許可を受け」てからのことなのかもしれない。
弁財天社は弁天岬のものだと思うし、これらの神社は島内の各所に点在していたものと考えられるが、それらが八幡社を除きすべて明神(八代神社)の境内社だったとは驚きだ。境内社とは「神社の境内に本社とは別に祀られている社」のことであり、だとすれば神島の島内全域が八代神社の境内だということになる。神の島であるからあながち間違いではないのだろう
「字井戸の上無格社八幡神社」は唯一境内社でないことからも分かるように大きい神社だった。神島の中で、明神(八代神社)と比肩する存在だったと思う。場所は第一ダムの上あたり。字井戸の範囲は分からないが、ダムの場所にはかつて水汲み場があったようなので、その”井戸”かもしれない。水汲みの様子が三島由紀夫『潮騒』で描かれている。
明治39年、政府により一町村一社を原則に統廃合を行う「神社合祀令」が出されている。明治6年に明神(八代神社)が村社となっていたことがその後の運命を決定づけたと言ってよかろう。
『高度経済成長期を契機とした植生景観の変化について(小椋, 2011)』内の昭和3年、昭和5年、昭和11年、大正14年生まれの4人の古老への聞き取りに、
「神山(祠のある山)にはモチノキもあり、風の宮など太いものがたくさん生えているところもあった。弁天山には祠があった関係でモチノキもたくさんあった。通常は伐ることができなかったが、正月に祭りに使うために、毎年一本ずつ切った。また、灯台の少し上には富士の宮という祠があり、そこには大きなモチノキが残っている。」という話がある。
・神山:「祠のある山」とはどこか。そもそも神島全体がひとつの山みたいなものではあるのだが。祠がない山、というのもあったのか?
・風の宮:八代神社由緒の「境内社風宮神社」に比定できる。
・弁天山には祠があった:「境内社弁財天社」に比定できる。弁天岬のことだろう
・灯台の少し上には富士の宮という祠があり:「境内社三社合殿龍山白山富士山神社」に比定できる。
最高齢の方でも大正14年生まれである。これらの祠が八代神社に合祀されたのが明治40年12月1日。以降に生まれた方の話に祠の名前が出てくるということは矛盾があるように思えるが、順当に考えれば合祀の後も祠が残り続けていたことを意味するのだろう。神様が八代神社に移って祠が抜け殻だったとしても、形さえ残っていればそこには信仰が生まれそうな気がする。現に弁天岬の山頂には今も祠があるという話がある(道がないので探検しなければ分からない)し、上記の聞き取りでも富士の宮のくだりなど2011年時点で現存しているとしか思えない言い回しである。合祀は政府の命によるものだから、島民にとっては本意でなかったかもしれない。
ただし八幡神社については全く消滅しており、この合祀によって廃社になっている。しかしたくさん神社があったものである。
また、『民俗文化(5) 鳥羽市神島の民俗的空間と時間(中山, 1993)』の「ゴクアゲ祭祀空間図」にて、灯明山山頂の南西に「フロの神」との記載がある。これはなんだろうと思っていたが、もしかしたら「風宮神社」のことなのか?風呂。。。風宮。。。
ちなみに八代神社の代名詞ともなっている200段のあの長い石段であるが、いつできたものなのだろうか。明治初年の絵図には書かれておらず、現在の石段より南側(向かって右手)から緩やかにカーブして社殿正面(南西向き)に繋がる道が描かれている。この道は現存しておらず、これに代わるものとして直線状の石段が築造されたと考えてよいだろう。
王子塚について
『民俗文化(5) 鳥羽市神島の民俗的空間と時間(中山, 1993)』の「ゴクアゲ祭祀空間図」にて、図中に「カツ王子塚」「セト王子塚」「デキ王子塚」の3つの塚の名前と位置が記されている。この地図はあまり正確なものであるとは言えず、具体的な場所までは把握できないが、大まかな位置関係については理解することができる。
これらの塚については神島青年団『神島』にも伝説が載っており、「神島には八王子の塚があったとの伝説があるが、現在の所、デキ王子塚、カツ王子塚、セト王子塚、カツメ王子塚の四個所がある」とされている。この本の発行は1964年8月で、中山の研究より約30年前であるが、その間にカツメ王子塚の位置は不詳となってしまったのだろうか。佐田浜にてゲットした「ウォーキングマップ神島」には、王子塚は単に「王子塚」としてひとつだけ描かれている。中山の図に照らし合わせると、これはカツ王子の塚だろう。
先日神島に行った際は是非この王子塚を探してみたいと思っていたのだが、忙しく路地を巡っているうちについうっかり失念していて、このカツ王子塚すらまだ見ることができずにいる。セト王子塚、デキ王子塚についても探してみる価値は大いにあると思うので、次回のお楽しみということにしたい。ただカツメ王子塚については場所が全く分からないので、今知っている情報のみで捜索するのはちょっと無理である。
鳥羽市観光情報サイトに
「後醍醐天皇の八人の皇子が神島に来たと言う言い伝えがある。その八人の皇子を祀る八つの塚のうち、デキ王子、カツ王子、セト王子、カツメ王子の四つの塚が現存している。内三つの塚は村落内の家並みに挟まれた狭い場所にあり、塚とは見極めがたい状態にあるか、デキ王子の塚と呼ばれるものだけが集落から少し離れた場所にあり、いかにも塚らしく見える。残る四か所はまだ見つかっていない。」
との記載があった。この文章がいつ書かれたものかは分からないが、どうやらカツメ王子塚も現存しているようである。
『神島』によれば
・デキ王子塚:神島の南の方の浜辺に近い山腹にあって末の老木が数本とモチの木の老樹が茂っているにすぎない
・カツ、セト、カツメ:いずれもひしめき合っている民家にはさまれている。段々民家に侵蝕されたのであろうが今残されている区域は昔より伝わる伝説があって誰もその場所には家も建てない。
・残り四人の塚:塚らしい所がない。あるいはデキ王子塚の周囲にあるのではないかとも考えられる。
とのこと。また、後醍醐天皇の皇子であったとの説について北畠親房の『神皇正統記』を引用して説明している。が、これについては検証が必要と思う。まあぱっと読んだだけの印象を語るわけであるが、房総半島の方から伊勢に向かって船で出航したが嵐にあい、北畠親房の船は常陸に着いたのに対して、なんと”御子(義良親王)の舟は障りなく伊勢の海に着かせ給ふ”!。同時に難破したのに東西に吹き分けられ、親王の舟が伊勢にちゃんと着いたということは神のご加護があったからだ!つまり南朝は正当な王朝なのだ!みたいな話ではないかと。たぶん。『神島』では数多く行方不明になった中の一部が神島に漂着したと説明しているが、彼らは伊勢神宮に向かっていたのだから、例え神島に漂着したとてそこで死ぬまで留まる必要はないのである。神島は赤道直下絶海の孤島というわけではなしに、もう伊勢は目と鼻の先なのだから。と、率直には今こういう感想を持っているわけである。
三島由紀夫は『潮騒』にてデキ王子塚についてこう書いている。
「古墳はどこからどこまでという境界がはっきりしないが、頂きの七本の古松のあいだに、小さな鳥居と祠があった。」
「その屍は何の物語も残さずに、美しい古里(ごり)の浜と八丈ヶ島を見下ろす陵に埋められたのである。」
古里の浜と八丈ヶ島が見えるという情報は大きく、だいたいの場所はつかめる。頂きということは尾根上ということでいいんだろうか。もっとも行って探検しないと分からないことではある。七本の古松とあるので、まだ段々畑が広がっていたころの昔の航空写真を見れば茂みのある位置で分かりやしないかと見てみたが、正直よく分からなかった。
ところで、なぜにデキさんだけこんなに離れた場所に葬られているんでしょう。
地名について
現在鳥羽市神島町で使用されている住所は「神島町+地番」というシンプルなものであるが、字も存在しているようである。おそらくかつては住所としても使用されていただろう。これとは別に神島の集落は南セコ・中セコ・東セコの3部落に分かれているが、この区分けが住所として使われることは無かったという。
ところで字についてであるが、住所(=地名ではあるが、使われていない地名があるという話なのでややこしい)には入っていないため、国土地理院地図やgooglemapsはじめ各種の地図でも全く記載がない。しかしながら、八代神社のホームページを見ると「三重県鳥羽市神島町1番地(字中之山)」と書かれていたり(すげえ地名。一等地一番地じゃないすか)、鳥羽市による告示の中で「字亀虎」「字乾」「字東山」が確認できたりする。昔の絵図にもいくつか字が書かれているし、とにかく字が存在していることは確実なのである。告示で現れるということは、正式な地名としては今も存在しているものの、実質的にはもはや必要がなく、住所としても全く使用されていないというこだろうと想像する。しかしその全ての名前だとかそれぞれの範囲・境界がどこにあるのかということについては全く知るすべがないのである。
さてどうしたものか。こういう住所として使われなくなった地名を調べるにはどういう手段があるのだろうか。