まだ流域に田が多く残る明治後期の旧版地図に、米野井筋の姿は描かれていない。
無くなっていた?そんなはずがあろうか。庄内用水とその灌漑面積の全盛期は明治の頃だとされる。果たして米野井筋は、実際にはいつ無くなったのだろうか。そしてなぜ他の用水や川に比べ早く地図から姿を消すのだろうか。
古川は晩年、大秋村あたりでのくねくねと蛇行した流路を解消するため、付け替えが行われている。昭和の初め頃のことだ。
この付け替えの後の新しい流路について。米野井筋のものとおおよそ一致するのだけど、付け替えの時既に米野井筋は無くなっていて、新しい流路はその跡を転用したのだろうか。それとも米野井筋に沿って開削されたのだろうか。
前者は僕自身の思っていること、後者は中村歴史の会の「日比津村」という資料に書かれている説明である。
下の地図は、米野井筋の廃止後、その流路を転用する形で古川を付け替えたとする僕自身の説(先述)に基づいて描いている。そしてこの地図が時系列的に正しいのかどうか、そしてその具体的な年代についてこれから解き明かしていくところである。
米野井筋の埋め立てと古川の付け替え。
これは、互いに絡み合う2つの疑問を解決に導くため、米野井筋や古川についての情報やそれらが描かれた地図を時系列に並べ、その変遷を正しく理解しようとする試みである。
加えてもう1つ、なぜ付け替え後の古川は区画整理後まで存在したにも関わらず現在その痕跡がほとんど残っていないのか、という疑問も。栄生あたりでは流路跡の多くが道として残っているのにも関わらず、その道は十王町ではたと途絶えてしまう。なぜ痕跡がないか、逆になぜ一部は道として残ったか、その境目には何があったのか。これについても後々解き明かしていきたい疑問である。
まずこれまでの情報を整理
中村歴史の会の「日比津村」という資料には、古川と米野井筋(当資料では米野用水と表記されている)の流路と埋め立てについて以下のように説明がある。
古川
- 昭和の始め頃、大秋では蛇行していた古川を米野用水に沿ってまっすぐにする工事が行われ、15年頃には暗渠となった。
- 昭和30(1955)年代から40(1965)年代にかけ、古川は埋め立てられたり暗渠となっていった。
この表現からは、古川の付け替えを行った当時はまだ米野井筋が流れていて、それに並行する形で新たな流路が開削されたというように読み取れる。昭和15年頃に暗渠となったという記述はおそらく下流部竹橋町あたりでの話だと思われるので、今回は無視する。
米野井筋
- 周辺の宅地化とともに用水は姿を消した。
というくらいで、こちらについては「いつなくなったのか」などの具体的な情報は記載されていない。
以上、他の資料でもいろいろ情報はあるが、ひとまず最も詳しいこの資料からの引用のみに留めておく。
「地図編」
過去の地図から、古川・米野井筋の流路変更と埋め立てに至るまでの変遷を追ってみる。
「国土地理院地図」明治後期、1/20000
古川は旧流路が描かれている。
米野井筋は描かれていない。
→米野井筋はなぜ描かれなかったのか
「大名古屋市街新地図」大正6(1917)年、大正8(1919)年
古川は旧流路が描かれている。
米野井筋も描かれている。
→双方、もともとの流路
迫り来る都市開発の波!
「国土地理院地図」大正9(1920)年、1/25000
古川は旧流路が描かれている。
米野井筋は描かれていない。
→米野井筋はなぜ描かれなかったのか
→関係ないけど、中村遊郭のお堀出現!
「名古屋市街図」大正11(1922)年
古川は旧流路が描かれている。
米野井筋も描かれている。
「大名古屋市街地図」大正11(1922)年
古川は途中で米野井筋に合流している。
米野井筋は描かれている。
→なにこの古川。同年の地図には古川の旧流路が描かれているので、単にこの地図が抜けてるというか間違っているだけかな、とは思う。
「名古屋市街全図」大正13(1924)年
古川は旧流路が描かれている。
米野井筋は上流部は描かれていない。太閤通の北あたりから徐々にはじまるような描かれ方で下流部は存在。
→米野井筋が姿を消し始める。あやしい。庄内用水からの取水はストップしたけど、なんだかんだ下流部では流れる水があるから水路が残されてるというような状態だったのか??
→そして関係ないけれど、中村遊郭出現!
「名古屋市街全図」昭和3(1928)年
古川は旧流路が描かれている。
米野井筋も描かれているが上流不明。
→うーん、地図の外にはみ出している。米野井筋が上流どこまで続いている
のかは分からない。下流は現存
「名古屋市全図」昭和4(1929)年
古川は旧流路が描かれている。
米野井筋は古川と接続される形で描かれている。
→かなり重要な地図なのではないか。米野井筋が南北の2ヶ所で古川と接続している。これは後の古川の新流路と一致。
→晩年、米野井筋には古川の水が流れていたということか。旧流路と新流路、米野井筋の下流部が同時に存在している。
「名古屋市街全図」昭和5(1930)年
古川は旧流路が描かれている。
米野井筋は上流部は描かれていない。太閤通の北あたりから徐々にはじまるような描かれ方で下流部は存在。
→なるほど、この描かれ方から読み取るに、大正13(1924)年から米野井筋の状況は変わっていないようだ。
「国土地理院地図」昭和7(1932)年、1/25000
古川は新流路が描かれている。
米野井筋は下流部含め描かれていない。
→古川が付け替えられた!!
→昭和5(1930)年から昭和7(1932)年までの間に古川付け替えか。「日々津村(中村歴史の会)」の「昭和の初め頃」とも一致する。
「大名古屋新地図」昭和8(1938)年
古川は新流路が描かれている。
米野井筋は下流部のみ描かれている。
→→あれ、再び米野井筋登場。付け替え後も古川の水を分ける形で米野井筋の下流部が残されていたということか。
(愛知県図書館蔵)
「大名古屋新区制地図」昭和13(1933)年
古川は新流路が描かれている。
米野井筋は下流部のみ描かれている。
→依然米野井筋の下流部が描かれている。蛇行しているあたりの古川がなぜか描かれていないが、存在していたことは確か。なぜ描写されなかったのだろうか。
(愛知県図書館蔵)
「国土地理院地図」昭和14(1939)年頃、1/10000
古川は新流路が描かれている。
米野井筋は描かれていない。
→米野井筋の下流部、ついに消滅か。
「名古屋市街全図」昭和16(1941)年
古川は新流路が描かれている。
米野井筋は描かれていない。
→おい何だこの地図、嘘が描いてあるじゃなかよ。古川の下流が柳街道に沿って中井筋まで流れるように描かれているけど、こんなのは有り得ない。おそらく作図者が柳街道の揺らぎを川と勘違いしたのではないかと推測するが、地図としてはあまりにお粗末。(と文句を言っておく)
「国土地理院地図」昭和22(1947)年頃、1/25000
古川は新流路が描かれている。
米野井筋は描かれていない。
→変化なし
「庄内用水路平面図」昭和30(1955)年~昭和39(1964)年の間?
古川は描画対象でないので描かれていない。
米野井筋は描かれているが元の流路と異なる。
→とても興味深い地図であるが、作成年は不明である。区画整理に併せて付け替えられたような描かれ方だが、カクカク曲がる流路は他の地図や現在の道とは全く脈絡がなく、テキトーに描いているようにも感じる。
→実は現在もかつての米野井筋の最上流と重なる位置に小さな分水(暗渠)があるので、それのことを描いているのかもしれない。(でもその暗渠は1度もカクカクしない)
→地図から作成年を予想してみる。
名古屋港の埋め立て状況から昭和30(1955)年頃
南陽町や楠村などが既に合併していることから昭和30(1955)年以降
瀬戸線がお堀を走っていることから昭和51(1976)年以前
御用水がまだ埋められていないことから昭和47(1972)年以前
新幹線が開業していないことから昭和39(1964)年以前
「国土地理院地図」昭和45(1970)年頃、1/25000
古川は描かれていない。
米野井筋も描かれていない。
→古川、付け替えられた流路も含め埋め立てられる
古地図は主に日文研データーベースより借用しました
文献編
郷土資料などに登場する文字情報から、古川・米野井筋の流路変更と埋め立てに至るまでの変遷を追ってみる。
「名古屋市 庄内用水路」松田勝三
- 明治43(1910)年 米野井筋元杁改築工事完了、元杁樋の改築完成
- 大正6(1917)年 愛知町(現中村・中川区)内の米野井筋が低地にいるかんがいに不便なため約451m付替工事完了
大正6(1917)年の記述を最後に米野井筋は登場しなくなる。
「名古屋歴史ワンダーランド」伊藤正博氏によるウェブサイト (出典不明)
- 大正9(1920)年 「米野井筋堤防護岸工事」が行われる板柵護岸、工事費:423円77銭
一先ずのまとめ
地図と文献という2つの側面から攻めてみたが、文献についてはそもそもの資料が少ない感じが否めない。地図は定期的に必ず発行されるし、例え川や用水にフォーカスをあてていなくても、地図に載せるべき情報として描画されるから、数年ごとに並べることができた。
結果として、米野井筋は大正12(1923)年の地図まで完全な形で存在しており、翌年大正13(1924)の地図から上流部が消滅。下流部はその後も昭和13(1938)年まで描かれ続け、昭和14(1939)年の地図で完全に消滅していた。
古川は、昭和5(1930)年の地図まで旧流路で存在しており、昭和7(1932)年の地図から新流路で描かれていた。これは「昭和の始め頃」とする「日比津村(中村歴史の会)」の内容とも一致する。昭和4(1929)年の地図から察するに、米野井筋の上流部が描かれなくなった大正13(1924)年から、旧流路と(米野井筋の一部としての)新流路が同時に存在していた可能性がある。古川の新流路とかねてより存在した米野井筋との間に時間的な空白はなかった。つまり、古川の新流路は”米野井筋に沿って”開削されたのではなく、”米野井筋の水路をそのまま転用した”のだと言っていいだろう。
そして先述のように、米野井筋の下流部は古川の付け替え後も昭和13(1938)年まで存在し続けていたようである。ただし、上流部は大正13(1924)年に既に埋め立てられているから、流れる水は古川のものである。
その後の埋め立てについては、昭和30(1955)年頃から38(1963)年頃までの間ということが航空写真から分かった。これも「日比津村(中村歴史の会)」の内容と一致する。
最初に載せた僕の地図は、古川の旧流路と(米野井筋の一部としての)新流路が同時に存在していたという点、付け替え後も米野井筋の下流部が存在していたという点で認識が間違っていた。ただ前者については、そのように描かれた地図は昭和4(1929)年の「名古屋市全図」1枚のみである(他にもあるかもしれないが)ため、信じてしまっていいのかとも思う。
今回は一先ずその地図の描写も踏まえ、分かった情報を書き加え修正してみた。
↓
古川付け替えの時期が2年間というかなり短い期間までしぼれたことは自分の中ではかなり大きな成果である。これまでだっていつでもできた単純なことだけど、時系列に並べてみて比較するという作業で、なんとなくの理解から脱却できてよかったと思う。
今後さらなる詳細や「もう1つの疑問」についても解き明かしていきたいところである。
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